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自由自在心について
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五井 昌久

自己の欲から来る自由と真の自由
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人間はいつの世でも、自己の自由を欲し、自己の想うままにこの世の生活を送ってゆきたいと望んでいます。
それは外面的の束縛からの自由と、内面的執着心からの自由の二つであるのですが、普通の人は、自由ということを、外面的の束縛がなく、自己の欲求の通りに事物を動かし得ることにのみ置いて、内面的の自由ということには想いを致さないのです。
このような考え方が、昔からずつと続いてきていて、この自由が充たぬと、諦めの心境に自己を追いこんでいたものであり、終戦後の日本では、自由主義という言葉に勢いを得た人達が、自己の欲望からくる外面的自由を得る為に、他人の自由や、人間の内面的尊厳性を打ち破ってしまい、自己の想念を、自我的欲望にますます執着させ、助長させる結果をひき起して、社会秩序を乱し、人間の神性(真の自由性)を地下にひきずり落してしまうことになったのです。
これこそ自由というものの本質や真実を知らぬ無智なる行為なのであり、人類にとって、恐るべき誤謬(ごびゅう)なのであります。
たとえ、外面的に何等自己を制圧する束縛がなくなりましょうとも、それで自己が自由を得たということも、自由自在である、ということも出来得ないのであり、いい得ないのであります。
ですから、現在の資本主義制度が悪く、社会主義制度や、共産主義制度こそ、人間を自由にし得るものだ、とどのような人が叫び、どのような国が宣伝しようとも、そうした人間の外面的制度の変革だけで、人間が真の自由を得、真実の幸福生活に入れるなどとは、とても想うことは出来ません。
どのような主義制度も、それが外面的な動きの中でのみの自由観であり、幸福観であるならば、それは真の自由を人間に与えることは永久に出来得ないのです。何故ならば、それは常に形の世界からもたらされる自由観であり、幸福観であって、内面の心、本心から湧き出でてくる自由でもなければ、幸福でもないからです。
外面の世界から与えられたるもの、それは常に変化し、流動してゆくものなのです。外面の世界の指揮を取っている者が、肉体的欲望をもち、五感的喜怒哀楽の中に生活している者であり、その周囲の者、また下部組織の者達のいずれもが、やはり、そうした感情生活の中で息吹いている者たちである限り、その人たちの日常の感情の動きが、その社会政策、政治政策に必ず変化として現われ、その変化にともなって、その変化を蒙る範囲の人たちは、その自由性を、外部から動かされることになるのです。それはその当人たちの否応なしに行なわれるに決っているのです。いちいちその当人たちの意見を訊いていては、如何なる政策の遂行も出来なくなるからです。
結局、政策を指揮し実行し得る少数の幹部だけが、外面的な自由を得るわけで、他の人民大衆は、その人たちの為に常に自由を抑圧されつづけてゆかなければならないのです。そして、その幹部たちの自由さえも、いつ迄続くか、いつ破れるかも知れぬ、危い外面的自由であり、その自由を保持する為に、その人たちの内面の想念は、本心の明るさ、光明を蔽い隠した画策、謀略であって、一日として、心の休まるいとまとてもないものなのです。
これは、この人たちも、それに連らなる人民大衆も、自己の欲望たとえそれが国家的、人類的であっても、そうした外面的、現象的な形の世界から得る自由や幸福のみに重点を置いているのであり、常にうつり変わる業的想念の流れを把えていての政策であり、行為なのですから、安定し得ることは絶対にないのです。こう考えてまいりますと、真の自由とか、幸福とかいうものは、どのような外面的政策からも得られぬものであって、自己の内部の本心からのみ湧出してくるものであり、獲得出来得るものである、ということになってくるのです。


“人間とは何か”を解決すること
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ここ迄来ますと、私がいつも話しているように、人間とは何か、自己とは一体何なのか、の問題をまず解決しなければならなくなってくるのです。それを知らなければ、到底真の自由を得ることは出来ないし、自由自在に自己の心を動かし得ることは出来ないのです。
いつも申しますように、人間とは肉体でもなければ、想念(おもい)でもありません。肉体とは人間の器でカルマあり場所でありますし、想念とは人間の発した光波の流れであり、もう一方では業(カルマ)の波の流れでもあるわけです。
この肉体的執着欲望、業(カルマ)的想念の波動が、本心を蔽っている以上は、人間が、真の人間、神性を開発して自由自在な心境になることは出来ないのです。
人間は瞬時といえど、絶対者神と一緒でない時はないのです。唯一絶対なるもの、神、大生命、その光明の流れにつながっていない人間という者は一人もいないのです。
その大生命の中に、智恵も富も力も、すべてがあるのです。その智恵に力に富につながっていながら、それを知らず、あるいは頭脳で知っていても信仰せず、信行せず、他の世界から、智恵を富を力を得ようとして狂奔しているのが現在の人間世界の姿なのです。
宇宙絶対者(神)の世界以外に他の世界が、一体どこに在るというのでしょう。神の世界から離れた想念を迷いといい無明といい、業(カルマ)というのです。そうした業的想念は、肉体界に人間が天降つてきて(天降ってという意味は、真実に天降ったということ、つまり地球以外の他の天体から霊体が、天降ってきて、その波動を緩慢にして幽体を造り、肉体を造って地球界に住みついたものなのです)そうして、肉体界に住みなれ、自己の本住の地である天界を次第に忘れ去るに従って生じ、肉体界だけの力で、自分たちの智恵や富や力を獲得しようとしはじめたのです。
このようた想念が、現代迄つづいていて、現代では、人間世界は肉体以外にはないのだ、ということが常識のようになってしまったのです。
そして、そうした考えを根抵にして、すべての政治政策を行ない、社会生活をやっているのですから、いつ迄たっても真の平和も、幸福な世界も出来上りっこはないのです。


自分も他人も本心では一体
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業生の想念の中で、いくらどのような智恵を働かせようと、外的生活だけ整って、至極便利になっては来ても、真実の幸福生活、真の調和の世界へは手がとどきそうもないのです。
業生の想念は、どのような時も肉体生活に自己を限定していて、その生活の幸福だけを求めているのですから、お互いが、お互いの肉体生活の幸福の為に、他から自己を護り、自己の為に他を抑えるような結果になってしまって、自他一体の幸福生活にはなり得ないのです。相対的な考え方は、いつ迄たっても一体にはならないのです。
一体になる為には、一度肉体的自己という想念を捨てて、生命としての自分、大生命につながっている自分という者に考えを致さなければならないのです。
自分と他とが別々であって、自分と他人の利害が相反していて、一体になりようもなく、共に喜びを分けあえよう道理もありません。
個人的にいっても国家関係からいっても、同じことなのです。そうした業生的観念をぬけ切らぬうちは、文明がどこ迄進んでゆきましても、真の平和、真の調和は望めないと私は思っているのです。
一つの家庭を例にとっても、親と子、夫と妻、兄弟姉妹、これらの関係も、肉体的に別々に分れていて、別人であります。この人達が調和し相援けて生活している場合は、同じ血を分けあっているとか、同じ家に住んで共通の利害をもつとかいう理由が、殊更それといい合わなくとも通じ合っている時であり、逆に争い憎み合う場合は、肉体的個別感情の利害によって、その争いや憎悪が生じてくるのです。私達は一つなのであるという感情から、私達は別々なのだ、個人個人なのだ、という感情に変化した時に、この家庭の調和が破れ、お互いがお互いの利益の中に、感情の中に相手をひきこもうとして口論し、相手が、自己の利益の中に、あるいは感情の中に入って来ない、同化して来ないと、相手を憎んだり、恨んだりするのであります。
このような、相手と自分とが別個のものであるという、誤った個人主義、いわゆる利己主義が、人間の心の中にある以上は、人間生活は常に波立ち騒ぎつづけなければなりません。
こうした感情は、真実の人間を知らず、神の愛を知らぬところから起ってくるので、このような人たちにとっては、自由自在心などは現われようがないのです。
自由自在心とは、真に人間の本体を知り、自己の想念を常に本心(神)の側に置いて、業生的想念の幸、不幸、利害得失を、過去からの誤まてる想念の影、無明の消えゆく姿として、その波の流れに把われず、掴んでも、直ちに放して本心と一つになれる想念の所有者によってはじめて発現され得るのです。


宗教と科学の使命
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人間が固定し、限定された肉体である、ということや、物質が一定に固っている物体そのものであるという考えは、もうすでに過去の古い考えであります。
近代は原子力が実際の力として使われはじめている時代なのであって、人間の肉体は勿論、すべての物体は、肉眼では見えぬ極く微小な原子の寄り集ったものであり、その原子も、原子核を中心にして(原子核の中には陽子がある)その周囲を幾つかの電子が回転しており、その他中性子だとか、中間子だとか、まだ発見されぬ微粒子がたくさんあって、それらの働きによって成り立っているといわれているのです。しかもその微粒子が何故こうして働いているか、なんの力によって動いているのか、ということはまだわかっていないのです。
理博の湯川秀樹氏は、"そのほかにわれわれにとって正体のわからないものがたくさん見つかっている。われわれが生きているこの世界の正体、本質については、まだほとんどわれわれは知らないのだ。何もかもわかったものとして片づけていこうというのは安易な態度だ"と読売新聞の座談会でいっております。真実の科学者という者は、実に正当な考えを述べるものです。わからぬものはわからぬとして、そのわからぬところからまた先へ先へと理論実験を進めてゆくのです。これが立派な科学者の態度であります。
ところが不真面目な学者や、一部のインテリゲンチャーは、科学科学と口ではいいながら、その態度は、まるで科学性をもたず、自己の知識経験の範囲を超えた事柄を、すべて、そんなものはない、とか、それは迷信さ、とかいって嘲笑しさる悪癖をもっているのです。
科学というのは、現われた世界を学問の力と機械器具の力とで追究してゆき人間世界の根本、宇宙構造の根源を探りあてようとしてゆくもので、大なり小なり、その目的への歩みなのであり、あく迄形の世界から無といわれ空といわれる世界の秘密を神秘化せずに探究してゆくのであります。
ですから科学は幾多の学問体系の積み重ねによって、突き進んでゆくのであります。
科学は人類の文明文化の進歩にとって重大なる鍵を握るものであるのです。しかし、それは今日のところでは、まだ外観の世界、物質といわれているところの世界だけの進化にとどまっていて、人間内部の世界、心の世界の進化とか開発にはあまり役立ってはいないのです。そこで、その方の開発進化の役目を宗教者が受け持っていて、一に心、二に心と、心の安定、心の探究に努めているわけなのです。
宗教者は、科学者が、形の世界を機械器具の力を借りて探究してゆくのとは反対に、肉眼に見えず、手に触れぬ心というものに直接的にぶつかってゆく研究をしてゆくもので、形の世界、肉体の世界を一度思考の外にして、自己の想念を本心、つまり神仏、いのちの本源に集中させてゆく方法を取っているのです。
いいかえれば、はじめから神秘力、絶対力、宇宙を動かす叡智というものの存在を信じてかかって、その神秘力、絶対力、叡智にむかって、自己の想念を集中し、その叡智絶対力、神仏と一つになろうと修業するわけなのです。
叡智絶対力、つまり神仏と一体になれば、宇宙の不思議、人類の神秘がはっきりわかってくるのは必然となるのです。何故ならば、宇宙の創造主、絶対者は、すべての生みの親なのでありますから、すべての生みの子の状態がわからぬ筈がないからです。
釈尊やキリストはこの状態に一番近づいた人たちであったと思われます。この状態を自由自在心というわけです。


我欲を去れば本心は輝く
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人間が、自己欲の想念から離れ去れば、自然と本心が表面の生活状態、言語動作に現われてくるのであります。本心は神の座にある、神の光明であるのですから、その人の生活状態、言語動作は光り輝いてくるのです。しかしこの光といい、光明といっても、物質的光や光明と範疇を異(こと)にしているのですから、一般の人たちに、ああまぶしい、とか、輝やかしい、とかはっきりわかるわけではありませんが、なんとはなく、明るく柔かく、温かい状態が感じられることと思うのです。
そうした状態に近づくに従って、その人の人格的雰囲気から、澄みきったもの、清らかなもの、明るいもの、快いものを会う人たちに感じさせるようになるのです。
自己欲望の想念を離れるということを逆にいえば、他の為を想い、他の為に働く、国家杜会の為を想い、国家社会の為に働く、人類の為を想い、人類の為に働く、短くいえば、愛一元に働く、ということになるのです。本心が表面に現われているということは、神がその場に現われているということになります。神はすべてのすべてであり、愛でありますから、神の心が動けば、その人が愛の想念、愛の行為で働いているということになるのです。
その人が、自己欲望の想念からより多く離れているだけ、その人は把われ少なく、自由自在心を現わしているということになるのです。
そうした人を霊眼で観れば、光り輝いて観えるのであります。
霊眼者とか霊能者とかいうのは、どういうことかといいますと、科学者が機械器具で原子を探りあてたと同じように、自己の特異な体質を元に、肉体波動より微妙な霊波動をキャッチ出来る人をいうのです。元来人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の波状を画いて、その人の周囲から流れ出ているもので、その人の長い間(過去世からの)の想念の集積が、その人の雰囲気となって他に伝わり、あるいは様々な環境や運命を創り出しているものなのです。そうした雰囲気が霊眼者には、光と観えたり、黒雲のように観えたりするのです。


不幸災難は過去世からの業の消えてゆく姿
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ですから、そうした想念の波動を観れば、その人がどの程度の魂的高さをもっているか常にどのような行為をしているかがわかるのです。常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放っています。愛が深いということは本心が顕われている証拠であり、神の心の働いている証(あかし)であるのです。人格の高さ低さ、立派であるか立派でないかは、その人の想念の波を観れば判然とするのですが、いまだにそれを見分ける機械は出来ていませんので、霊能的一部の人にしかそれがわからないのです。
しかし、他人の想念のことはひとまず置いて、自分たちが立派な人格になり正しい運命を創り出すことに最大の重点を置かなければなりません。それには、一にも二にも自己の想念を神の世界、光の側、愛の世界、おもいやりの側に置かなければなりません。人を陥れ、人を憎み、人を傷つける想いを出し、その想いを実行して、一時は自己の立場が優位に立ったように見えたり、気晴ししたように思えたりしましょうとも、それらの想念は神を離れた想念、光を離れた想念なのですから、自己の周囲に黒雲を呼び起し、暗い波動で、自己の内部の魂の光を包んでしまいます。内部の光がそれだけ蔽われて、真実の幸福、真実の自由からそれだけ遠ざかったことになるのです。
そしてそうした黒雲がその人の周囲を一杯に蔽うと、自然にその黒雲(悪想念の波動)が壊われて、その人の運命が急激に悪化し、不幸災難が巻き起されるのです。その時その人は悶え苦しんで、意識的無意識的にかかわらず、今迄の行為を反省するのです。
これは今生だけの想念行為でなく、過去の世からの想念行為によるのですから、現在は自分が悪い想いや行為をしていたいとしても、不幸災難は現われることがあるのです。いいかえれば、不幸災難が現われた場合は、必ずその人の過去からの想念行為の誤りがそうした出来事に現われて消え去ってゆく時なのです。そして、その業(悪想念行為)が消えてゆく時こそ一番大事な運命開発の時なのです。それを知らないと、そうした時に、天を恨み、人をそしり、自己の不運を嘆き悲しんで、勇気を失ってゆくのです。


善にも悪にも執着してはいけません
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人間が常に善き運命の下に、明るく勇気強く生きる為には、神の存在を信じ、神の愛なることを信ずると共に、不幸災難は過去の借財返済であることを確く信じ、それが消え去れば必ず、神の愛、神の力が自己に顕われてくることを信ずることなのです。
自分が悪かった、と思ったら、瞬間的に思うだけでよいので、いつ迄も自分が悪かった、悪かったとくどくど思う必要はありません。悪かったから出て消えたので、もう誤っていた自己の想念行為(業)は消え去っているのです。そこで想念を立ち直らせて、神様(守護の神霊)にしっかりつかまり、どうぞ自己の天命を完うせしめ給え、と祈りつつ真っ直ぐに生活をつづけてゆけば必ずその人には善い運命が開かれるのです。
あまり自分を悪がっていると、勇気が消滅してしまい、折角輝き出そうとしている光明をじめじめと蔽ってしまうことになり、把われの想念になってしまうのです。善にも悪にも執着してはいけません。本来は、自己は無いのです。悪いも善いも、それは、神の真実の姿を、この地上世界に現わそうとする光と影の交差であって、善と把われ、悪と把われるその想念が、生命の流れを阻止し、ためらわせて業となり、神の世界創設を遅れさせてしまうのです。
相対的なこの世界、形の上のこの世界の善悪共にやがては消え去ってゆく姿であり、その消え去った後に、善悪相対を超えた、お互いに善意だけに生きる光の世界、神の世界が現われてくるのです。
そこで私は、極力把われを放つことを人々に教えているのです。


はじめ人間は皆神の中にあった
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太初(はじめ)に言(ことば)<道>ありき、言(ことば)はすなわち神なりき、と聖書にあるように、太初はみんな神様の中にあったのです。それが、肉体世界が出来て以来、神様の世界と肉体の世界とを全く別のものとして観たり、神様の世界というものを全然考えず、肉体世界だけを実在と誤って考えてしまった無智無明の想念が、今日の人類の不幸となってしまったことを、人間はもっと落ちついて考えて見なければなりません。
釈尊はそれを悟られたので、この世界はすべて空(くう)なのだと、一度この現象世界、現れの世界を否定してしまって、それに附属している各種の想念、欲望をも一切断ち切ることを教えたのです。
人間が今迄、自分だと思っていたのは、習慣的想念なのです。自分が生命だと思っていたものは、肉体という器(うつわ)内に限定していたものであって、生命の本体ではないのです。海は波そのものではないのです。波だけをみて、これが海だといったらおかしなものです。波は想念であり、海は生命なのです。
人間の生命を肉体だけに限定して考える誤り、想念を把えて心である、とする誤り、この誤謬を一日も早く改めなければ、人間世界を真実の世界にすることは出来ません。人間よ、想念を静めて本心をみつめよ、ひたすら神(守護霊、守護神)を呼びつづけ、本心開発の加護を願え、さすれば、その人は自由自在心を得ん、と私はいいたいのです。
守護霊は貴方の頭の上に、守護神はそのまた上に、貴方の本心開発の為に、真剣になって過去世からの貴方の誤った想念行為の波動を、光の波で浄めつづけているのです。
守護霊守護神に感謝しつづけていれば、必ずその神霊の存在が、貴方に感得出来るようになるでしよう。

『霊性の開発』より