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ホーム五井昌久 - プロフィール : 霊光写真について

霊光写真について
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五井 昌久

円光だけが写っていた
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霊光写真(五井先生を写した)
(五井先生を写した霊光写真)
霊光写真については、撮影者の島田さんから、時折り話があることと思いますが、この世的にいえば、全く不思議という他はない話です。
この霊光写真は、現在同志の皆さんは殆んどお守りとして持っておられるし、その守護の力は偉大なものがあることは、幾多の霊験で明らかにされています。
自家用車が、崖から転がり落ちても、乗車していた誰一人として怪我さえしなかった話とか、飛行機事故が起っても、霊光写真を持っていた人と、その周囲の人だけは、生命を取止めたとか、トラックに脚をひかれて、トラックのタイヤの跡がはっきり脚についているのに、その脚はなんでもなかったとかいう、奇蹟話は後をたちません。
同志の方は、もうすでに霊光写真がどういうものであるかという概略を知っておられるのですが、唯物的な人は、恐らくこの話を信じないのではないかと思われます。あなたの話には嘘がなさそうだが、何かの間違いがそこにある、という人はまだよいほうで、一笑に付してしまう人が多いことでしょう。
しかし、笑われても馬鹿にされても、霊光写真は、厳然としてここにあるし、その写真が多くの人を救っている、という事実は動かせないことなのです。五井昌久という肉体をもった人間が、訪問先の家の玄関で、鞄をもって立っているのを、その家の主人の島田重光氏が撮影した、その結果、そこに写し出されたのが霊光写真、つまり白く光っているフイルム一杯の円光写真なのです。
五井昌久という肉体人間が、円い光の玉に変化して写ってしまった、という、世にも不思議なことが起ったわけです。
撮影した当人の島田氏は科学者なので、常識の世界で起り得なかったことが、自分の前で起った時に、それを疑間視して、科学的な探究をしないではいられません。いろいろな角度から、写真について、探究しつづけたのですが、その結果は、島田氏のカメラは、霊光を、玄関前の私の位置で把えて撮影した、という事以外になんの答も出てこなかったのであります。横から光が入ったとか、なんだかだという、撮影上のミスがなされた形跡はないのでした。
ところが実際には、島田氏の眼には、霊光は見えていないで、五井昌久の肉体だけが見えたので、島田氏の撮影した当体は、霊光ではなく、五井昌久であったわけです。ということは、五井昌久の肉体が消えて、代りに霊光が写った、ということか、または、五井昌久という肉体人間は、カメラの微妙な眼によってとらえると、霊光であった、ということか。とに角、眼に見えない世界のなんらかの働きかけが加わって、この霊光写真ができ上がったということなのです。
インドあたりに、霊光になってしまう人がいた、という話を聞いたことがあったように記憶していますが、こうして肉体人間を写したものがはっきり霊光写真として、撮影されているのは、私の知っている限りでは、この霊光写真だけなのであります。
私がどうして、今更のように霊光写真のことを書き出したか、といいますと、肉体と神霊世界との関係について、この霊光写真の話をもってくると、人々にわかりやすいと考えて、ここに霊光写真の話を持ち出してきたわけなのです。
五井昌久という肉体をもった人間が、霊光になってしまった、ということは、肉体と霊光との間に密接なつながりがあったことは疑う余地もありません。人間の眼でみれば、五井昌久という人間は、普通人と少しも変らぬ肉体人間のように思えましょうが、カメラの眼は、はっきり普通人との差を見出したのです。私の場合は、カメラがこの差を見出したのですが、他の人の場合も、それぞれの差があるのでありまして、合気道の植芝盛平翁の体が澄みきって、自分の体の中を魚が通りぬけた、という話や、七、八人の人が同時に槍で突きかかっていっても、自分たちが倒れてしまうだけで、翁は平然とそこに立っておられるという例や、その他達人とか第一人者とかいう人は、確かに普通人と違った肉体なり精神なりをもっているものなのです。
私の場合、肉体のほうは背丈1メートル60センチぐらい、40何キロという体重の人間ですから、普通平均以下の肉体的素質です。ですけれど、私の打つ柏手のひびきがもつエネルギーは、普通人の200倍もある、というのが、九州芸工大教授の音響学の北村音壹博士のデーターです。そのデーターを次にかかげてみます。


五井先生の柏手の音の測定

測定日時 : 昭和35年12月18日午後
測定場所 : 東京割烹女学校(統一中)
使用測定器 : 指示騒音計(日本電子測器製)OF-17周波数分析器(日本電子測器製)
測定者 : 北村音壹教授
測定位置 : 測定用マイクロホンの位置は、掌中心より50センチの距離前方の位置、音源からマイクロホンまでの距離が変わると、音の強さも変わるので、本測定では50センチ一定に保った。

測定の概要 : 柏手中の掌の間隔は約20センチである。統一中は柏手される位置は左右に動くので、正面位置で、マイクロホンとの距離50センチの時の柏手の音のみを測定した。また柏手の音の強さは一定ではなく、数デシベルの範囲の変動があるので、測定器のメーター、のふれの最も多く指示する値を代表値として選んだ。この値は大体中央値を示していると考えられる。
音の強さはデシベル(以下dbと記す)で示す。これは音の強さのレベルの単位である。人間の聴き得る最も小さい音は、Odb、最も大きい音は130dbである。

測定結果 : 五井先生の柏手の音の強さのレベルは、前述の測定位置で103dbである。最大105db、最小99dbであるが、103dbが代表値と考えられる。一般人の柏手の音は10才代男子1名、20才代18名(うち男17名、女1名)、30才代7名(うち男6名、女1名)、40才代男子1名、50才代2名(男1名、女1名)、60才代1名、の30名につき測定。これらの人の平均(中央値)を求めると、最大88(77-91)dbふつう80(73〜88)dbであった。
最大というのは、約3分間、この強さで拍つと、掌が痛くなる強さ、ふつうというのは普通、音楽会等で拍手をする時の強さである。カッコ内の数値は、30人についての測定値の分布の範囲を示す値である。これより考えると、ふつうの人の拍手の音の強さに比べて、五井先生の柏手は23db強いといえる。
しかしこの比較は或いは妥当でないかもわからないとも考えられるのは、五井先生のように、一日中柏手をふつうの人にさせた時のものと比較すべきであるが、この実験は時間を要するのでできなかった。それ故23db以上の違いがあると考えてもよさそうである。また前述のように、ふつうの人が3分間くらいしか拍てない最大の拍手の音の強さと比べても、五井先生の柏手の音は15db強い。これは驚くべき柏手の音の強さである。

結論 : 五井先生の柏手の音は、103dbの強さで、普通人より23db強い。
これは音のエネルギーで考えると、200倍の強さである。また普通人がいかに力を入れて、一所懸命に拍手をしても、最大88(77〜91)dbで、五井先生の柏手の強さには到底至ることが出来ない。
まことに不思議な柏手の音の強さである。


私の柏手のひびきは、すでに肉体のひびきではなく、肉体以外の力の働きかけによるひびき、という他はありません。
そう致しますと、そのエネルギーは霊光の中から発せられているかも知れませんし、大生命の中心から、そのまま肉体に働きかけてくるのかも知れません。どちらに致しましても、五井昌久という肉体をもった人間の頭で、柏手を打とうと想って打つのですが、その力は常に肉体の力をはるかに超えたエネルギー量であるということです。
そこで、五井昌久というのは、肉体人間プラス、眼に見えない神霊の世界の力をもっているということができます。そして当の私は、そうした神霊の力をよく知っているのであります。自分の行動のすべては、神霊の世界の神謀(はか)りに謀られた働きと全く一つになって行動されている、という事実を私は充分に知っていて、世界人類の平和達成のための祈りの中で生活しているのであります。
そう致しますと、五井昌久という人間は、肉体は主でなくて、霊光として写真に写った直霊、本体のほうが、この肉体世界の活動においても、主となっているともいえるのです。皆さんも私も全く同じことなのですが、皆さんは自分自身の本質をあまりご存知ないが、私は種々の霊的体験によって、よく知っています。そして、私の肉体身を写した、写真が、霊光写真となって現われたことによって、私自身の肉体は霊光そのもの、或いは霊光と殆んど等しい波動の存在ということがわかったわけです。
この霊光は私の本体、直霊もしくは直霊と分霊の光明の合体したものとしますと、写真撮影のその瞬間には、私の肉体波動は消え果てていたか、霊光と一体になっていたかしたわけで、どう考えても、霊光と肉体との間に、そう差がないように思われるのです。
私自身が祈っている時、柏手を打っている時、講演をしている時など、私の肉体は非常に稀薄な感じになりまして、大きな大きなとてつもない大きな存在が、人々に光明を投げかけているのであります。私の肉体というのは、神々の働きがこの地上界になされるための場であり、器であることを、私にはよくわかるのです。
私が常に説いておりますように、人間は神の分生命でありまして、肉体世界に生きている時、同時に神霊の世界にも生きているので、肉体世界を生命が去って、肉体の死という状態の時には、肉体に入っていた、分霊魂魄(ぶんれいこんぱく)は、神霊の世界の生命要素と一つになってゆくのです。しかし、なかなか一つになりきってゆく人は少なく、大方は、肉体にあった分霊魂のまま、魄要素を地上と半々に残して、生命の本源と離れて、生活することになってしまっています。
どうしてそうなるかと申しますと、肉体生活において、分霊魂魄が、想念というものを生み出しまして、その想念が、直覚的に働いていた分霊魂の在り方を乱して、肉体人間の運命をつくり出す、主になる働きをするようになってしまったからです。想念が人間の運命をつくり出すようになりますと、分霊魂の本来の直覚的働きで、肉体を生命が離れれば直ちに本源世界の生命と全く一つになって神霊そのままの働きができるようになる筈なのに、想念の働きのほうが強くてそうなることができず、肉体死後も想念のままに別個の運命を本源の生命と離れてつくるようになってしまうのです。
私などは、肉体に現在存在しながら、自己の想念というものを、すべて神様のみ心にお還えししてしまいまして、すべて神様のみ心のままの生き方に徹底してしまっています。そこで、私の肉体は、肉体としてこの地上界にありながら、神々の場として器として、本源の生命の働きが直通的にできるようになっているのであります。これをお任せの生活とか、神我一体の生活とかいうのでありましょう。肉体身の私といつものをもっている以上、人間は、神との一体化をすることができません。一度はどうしても、肉体の私というものを捨てきって、神様のみ心に入りこんでしまわねばならないのです。
普通では、なかなかそれができないので、私はたゆみない、消えてゆく姿で世界平和の祈りの生活といって、皆さんに祈りにつぐ祈りの生活を教えているのであります。
皆さんも実は、私の霊光写真のように霊光の体をもっているのでありますが、それを知らないだけなのです。己の想念が常に肉体身にまつわりついている限りは、肉体以外の霊なる力を得ることはできません。霊光のひびきを想念が妨げてしまっているからです。
私などは、柏手を打つ時でも、殆んど肉体に力を入れていません。肉体にある力を逆に殆んどぬききってしまっているのです。そうしますと、神霊の世界の力が肉体に働きかけてきまして、普通人の200倍以上の力となって現われるのです。力と一口にいっておりますけれど、これは単なるエネルギーというのではなく、人間の体や精神を浄める力もあり、生命を生きいきとさせる力もあるわけです。このように一人の人間が200人力を発揮すれば、この世の中は大変な利益を得ることになるのですから、誰しも、一人力より200人力になったほうが得なわけです。そして、そうなるためには、一度自己の肉体の力をぬききらなければいけないということになります。
剣道でも柔道でも相撲でも、そしてボクシングでも、体の力をぬかないと、真の力がでないということですが、私のような場合は、全身の力をぬききってしまう。神霊のほうに全託してしまう、ということなのですから、普通ちょっとできることではありません。そこで私は、徐々にそうなるようにと、世界平和の祈りの中に、自己の想念を入れきってしまう日常茶飯事を送ることを、皆さんにすすめているのであります。自分も気づかぬうちに、肉体の力と霊身の力とが入れ代っている、ということ、神霊の力が、いつでも肉体身をカバーしてくれる、という、そういう無理なく神霊の力を自己の力としてゆく方法を、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法にして人々にすすめているのであります。

『聖なる世界へ』より