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ホーム五井昌久 - プロフィール : 私の神我一体観の体験

私の神我一体観の体験
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五井 昌久

天の私(真我)と地の私がついに合体する
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‥‥自然はなんて、美しいのだろう、私は自然の美しさの中に半ば融けこみながら、世の中から病苦を除き、貧苦を除かなければ、この美しさの中に全心を融けこませるわけにはゆかないのだなあ、と自分の責任ででもあるような痛い声を心のどこかできいていた。
私はその声に応えるように、「神様、どうぞ私のいのちを神様のおしごとにおつかい下さい」と、いつもの祈りを強くくりかえしながら歩いた。そのまま向岸へ渡る舟着場まで来て、土手を下りようとした瞬間「お前のいのちは神が貰った、覚悟はよいか」と電撃のような声がひびき渡った。
その声は頭の中での声でも、心の中の声でもなく、全く天からきた、意味をもったひびき、即ち天声であったのだ。それは確かに声であり、言葉である。しかし、後日毎朝毎晩きかされた人声と等しきひびきの霊言ではなかった。私はそのひびきに一瞬の間隙もなく「はい」と心で応えた。
この時を境に私のすべては神のものとなり、個人の五井昌久、個我の五井昌久は消滅し去ったのである。しかし事態が表面に現われたのはかなり日時が経ってからであった。
私はひととき、土手の下りぎわで、じいっと眼を閉じたまま何も想えず立ちすくんでいたが、やがて夢から醒めた人のように眼を開けた。太陽は白光さんさんと輝いている。小鳥の囀りも耳もとに明るい。私は一時の緊張で堅くなった体を両手で交互にさすりながら、渡舟に向っていった。
「私のいのちはもうすでに天のものになってしまったのだ、この私の肉体は天地を貫いて此処にいるのだ」私の心は澄み徹っていて、天声に対する何の疑いも起こさなかった。 ‥‥

と云う体験から、その間幾多の霊的修業をさせられて、現在の私になる直前、即ち、

‥‥ 私は例の如く就寝前の瞑想に入った。想念停止の練習により、私は直ちに統一する事が出来る。その夜統一したと思うと、吸う息がなくなり、吐く息のみがつづいた。すると眼の前に天迄もつづいているかと思える水晶のように澄みきった太く円い柱が現われ、私は吐く息にのり、その太柱を伝わって上昇しはじめた。

(‥‥ 中略 ‥‥)

七つ目の金色に輝やく霊界をぬけ出た時は、全くの光明燦然、あらゆる色を綜合して純化した光明とでも云うような光の中に、金色に輝く椅子に腰掛け、昔の公卿の被っていたと思われる紫色の冠をかぶった私がいた。“あっ”と思う間もなく、私の意識はその中に合体してしまった。
合体した私は静かに立ち上がる。確かに其処は神界である。様々な神々が去来するのが見える。

(‥‥ 中略 ‥‥)

天の私(真我)に地の私が合体して停っているこの現実。霊的神我一体観が遂いに写実的神我一体として私の自意識が今確認しているのである。
想念停止の練習時にはもう少し上(註・奥に)にもう一段上に自己の本体がある、と直感しながら今迄合体出来なかったその本体に、その時正しく合体したのである。吾がうちなる光が、すべての障害を消滅せしめて大なる発光をしたのである。その時以来、私は光そのものとしての自己を観じ、私の内部の光を放射する事によって、悩める者を救い、病める者を癒しているのである。
天とは人間の奥深い内部であり、神我とは内奥の無我の光そのものである事も、はっきり認識した。

(‥‥ 中略 ‥‥)

‥‥空観とは、空そのものが終局ではなかったのである。空になるとは現象的、この世的すべての想念を一たん消滅し去って、その「空」となった瞬間、真実の世界、真実の我がこの現象面の世界、現象面の我と合体して、天地一体、神我一体の我が出現してくるのである。真我の我とは一体何か。神我であり、慈愛であり、大調和であり、自由自在な心である。‥‥

という体験を経て、最後に

‥‥ 瞑想してやや暫くした時、眼の前がにわかにただならぬ光明に輝いてきた。私は想念を動かさず、ひたすらその光明をみつめている。すると、前方はるか上方より、仏像そのままの釈尊が純白の蓮華台に結迦趺坐(けっかふざ)されて降って来られ、私の方に両手を出された。私も思わず、両手を差し出すと、如意宝珠(にょいほうじゅ)かと思われる金色の珠を私の掌に乗せて下さった。
私は思わず押し頂き、霊体の懐に収めた。その後、現象界で云う、おさかきのような葉を五枚下さって、そのまま、光輝燦然と消えてゆかれた。私は暫く釈尊を御見送りする気持で瞑想をつづけていると、今度は、やはり光り輝やく中から、金色の十字架を背負ったイエス・キリストが現われたとみるまに、私の体中に真向から突入して来て消えた。その時、“汝はキリストと同体なり”という声が、烈しく耳に残った。私のその朝の瞑想は、その声を耳底に残したまま終わってしまった。
私は深い感動というより、痛い程の使命観を胸底深く感じていた。その事が単なる幻想でない事を、私の魂がはっきり知っていた。“汝は今日より自由自在なり、天命を完うすべし”と云う内奥の声を、はっきり聴いていたからである。私は直覚的にすべてを知り得る者、霊覚者となっていたのである。
その日から表面は全く昔の私、つまり、霊魂問題に夢中にならなかった以前の私に還元していた。私はすべてを私自身の頭で考え、私自身の言葉で語り、私自身の手足で動き、私自身の微笑で人にむき合った。私の眼はもはや宙をみつめる事もなく、私の表情は柔和に自由に心の動きを表現した。私はもはや神を呼ぶ事をしなかった。人に押しつけがましく信仰の話をしなくなった。父母にも兄夫婦弟にも弟にも、昔の五井昌久が甦ってみえた。柔かな、思いやり深い、気楽で明るい息子が冗談を云いながら、老父の脚をさすり、老母の肩をもみほぐす毎夜がつづいた。 ‥‥…

自叙伝『天と地をつなぐもの』より