真の自分を識ることは、神を識ること

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"汝自身が汝自身の光"
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人間は本来神そのものでありますから、本来光り輝いていなければならない存在なのです。その光を外に見出し、追い求めるものではなく、自分自身が光そのものでなければならないのです。本来あなたそのものが光であり、神そのものなのです。人類はすべて"汝自身が汝自身の光"とならなくてはならないのです。自分自身が自分の運命の真の導き手でなければなりません。自分の運命の導き手が決して外なる神であってはならないし、かつまた、他の何ものであってもならないのです。自分自身の真の導き手は自分自身以外の何ものでもないのです。"汝自身が汝自身の光"なのであります。この一番究極的なる部分に触れることなくして、ただ表面的に外なる神にすがり神に祈ったとしても、自分の尊い価値ある人生を真に導き得ないのであります。
自分の一生は自分のみの一生です。自分の生命は自分のみの生命です。その一番の原点を忘れてしまって、自分の生命、自分の人生そのものを他に支配され、他が導きつくり上げてゆくものと考えていたならば、本来の自分とは一体何なのでしょうか。自分の叡智、自分の個性、自分の自由、自分の創造力、自分の能力は何のために使われてゆくべきものなのでしょうか。自分の本来持てるこれらの素晴らしき輝かしき神の無限なる叡智は、神にすがること、人に頼ること、他に自らの権能の力を与えることに使われるべきではありません。決してそうであってはならないのです。それらの叡智はすべて自分の人生において発揮されてゆくべきものです。この叡智は使えば使う程、更に磨かれ高め上げられてゆきます。ついには宇宙神そのものの叡智と交流し、神そのものの働きが可能になるのです。その自分に与えられた無限なる叡智を使わずして、人々は安易に外なる神にすがり、神に祈り、人々に頼り切るのです。誰も彼もが本来持っているこの素晴らしき輝かしき無限なる叡智を使わず、心の奥にしまい込んでしまったのです。しかもその見失ってしまった叡智を求めて外なる神にとりすがり、神に救いを求め、神に祈っているのです。 人々は自分自身の叡智を信じてはいません。人々は自分自身の能力を評価してはいません。人々は自分自身の中にある無限なる癒しの力に気づいてはいないのです。人々は自分自身の輝き、万能の力を疑っています。人類はみな、本来の自分自身の姿(神)を見失ってしまっています。自分は弱くはかなく、どうしようもないものだと芯から信じ切り、神からほど遠いかけ離れた存在だと思い込んでしまっています。そして本来誰もが生まれながらに持っている無限なる叡智、無限なる知恵、無限なる能力、無限なる健康に目を向けず、否定的な部分的、消極的な方面にのみ心が傾き、注意が向けられてゆくのです。意識がすべて自分の欠点、至らなさ、能力の無さ、劣等感などに集中してゆく、これでは本来の自分を輝かそうとして必死になっても、すべてが無駄に終わってしまいます。
何故ならば、根本的に真理からずれてしまっているからです。本来の自分を識らずして、自分の不幸を嘆き、自分の苦労に溜め息をつき、自分の病に心痛めているのです。全くの方向違いに向かって努力し、忍耐し、克己し、励んで、真面目に懸命に生と闘って生きているのです。だが、いつまでたっても幸せは訪れず、平和はやっては来ません。やって来るのは不幸、苦悩、挫折、困難、病気のみです。
先ずここで大きく真理に向かって方向転換をしなければなりません。今までの生き方を完全に覆し、全く新しい方向に自分の意識を転換させる必要があるのです。
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自己の心を隠蔽したままで、真の救われはない
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今まで人類は、自分の苦悩、不幸を常に外なる神にすがることによって、神に祈ることによって解決しようとしてきました。そして神にすがり、神に祈ることによって一時的にその苦悩、その不幸が解決されたのです。しかし実際には、自分自身の心の在り方が変わらなければ、必ずまた同じ不幸、苦悩が生じてきます。そうするとまた、神に祈り、神にすがる。一時的解決しようと神に祈る。だがしかし、何故自分にこのような不幸や苦悩が度々生じてくるのか?何故? という疑問が自分で解決されない限り、この状況から少しも脱し得ず、同じ線上をグルグルと繰り返し回っているに過ぎないのです。それでは同じレベルの堂々巡りです。自分が何故このような状態になるのか? 何故悩み苦しむのか? 何故病気になるのか? 何故人から恨まれるのか? 何故このように毎日が重苦しく辛いのか? 何故家族や人々と調和して生きられないのか? 等、多くの難題が重なり合って自分の運命に現われてきます。その根本問題である、何故? 何故こうなのか? が真に解決されない限り、真の幸せ、真の平安はあり得ないのです。
何故? を知る鍵は自分自身のことをよく見つめ、識ることです。自分自身について何一つ識らずに、自分は不幸だ、病気だ、災難だと騒ぎ立ててもそれは何の解決にもなりません。先ず自分自身そのものをよく識ることが大事なのです。何故、この不幸が、この悩みが自分に付きまとうのか? その原因は一体何なのか? それを知る必要があります。そのために一番大事なことは、最も単純なことから始めてゆくことです。
先ずあなたは今、自分が幸せであるか否かをはっきりと自分自身に問うてみなければなりません。幸せでないとしたならば、一体何が自分の心を幸せでないようにさせているのか、その原因を突き止めてみたければなりません。自分に正直に、自分の心を素直に見つめなければなりません。今自分の心を縛っているものは何なのか? 今自分の心を苦しめているその素は一体何なのか? 今自分の心を痛めつけ不自由にしているものは何なのか? 今自分の心いっぱいに広がるこの不安感、恐怖は何が原因なのか? 人間は誰しも当然幸せであらねばならないのです。幸せに生きてゆくのが自然の姿なのです。だがしかし、多くの人はその真反対の生き方を強いられています。余りにも苦悩が絶えず、その原因が一体何であるか自分でもわからない人が大勢います。自分の心の内部を正直に見つめよと言われても、自分の心は自分でも一体どうなっているのかわからない程、実に複雑で奇々怪々で掴みどころがありません。自分の心の内部などは誰に見られる心配もないのに、そしてまた誰に知られることもないのに、何故か自分でも自分の心の奥を知り尽くすには深い勇気がいるような気がします。怖い気がするのです。そしてまた、自分の心の内部を自分自身でも知りたくはない、突きつめたくはない、何かヴェールに包んで心の奥にしまってそっとしておきたいといった心が湧くのです。それも無理からぬことです。
だがしかし、人間は自分の運命を善きほうへ導くために、一度は自分の心を深く覗き込んでみなければならない時があるのです。常に人々には、自分の心の弱さを人に見られたくはない、人に気づかれたくはないという気持ちがありますが、秘密の心は自分自身にもさらけ出したくはない、自分自身にさえも隠しておきたい、そっとしておきたい、触れさせたくはないというその心こそが、自分の運命を閉ざしている最たる原因であるということが判っていないのです。
何も恐れる必要はありません。恥じ入ることもありません。自分だけが弱いのではありません。弱さはすべての人間に共通している部分です。そこのところを勇気をもって、自分の過去の出来事を自分自身で隠蔽してしまわず、その秘密の部分を恐れず避けず勇気をもって突きつめてゆくのです。かつての傷口を、かつての嘘偽りを、かつてのおぞましさを、かつての恥ずかしめを、かつての痛ましさを、そのまま心の奥にしまい込まずに、勇気をもって心の表に現わし、消えてゆく姿として一刻も早く自分の心から消してしまうのです。
この一番の問題である自分自身の心の秘密の素、それが何であれ不幸や不調和や不完全さの原因ですので、それを前生の因縁の消えてゆく姿として消していただき、世界平和の祈りを祈る必要があるのです。その原因を隠蔽したままで、自分の心の救いを神に求めたり、他に懇願してみても、表面的な解決のみで、真の救われは決してありません。絶え間なく自分の心の奥にひっかかるその問題点の解決なくして、真の解決はあり得ません。それは心の憂さを一刻忘れるために酒に溺れるようなものです。酒の力を借りて自分の心の憂さを忘れようとしているのと同じです。だがしかし、酒の威力が醒めた時、また前と同じように心のうずきが始まります。酒は真の問題解決にはなりません。一種のまやかしです。それと全く同じよう一時に、神に助けを求めても、神にすがってみても、神に祈っても、一時の心の憂さは忘れられても、また再び心の重苦しさ、不安感が襲ってきます。この自分の心にしまいつづけ、押し込めつづけている自分の原点をさらけ出してその原因を確かめたい限り、人間の運命の全開はありません。真の安心立命はないのです。根本問題が解決されないまま自分の道を閉ざしてしまっているのです。かつまた、その最も根本的な素因を表に現わして消すことなく、隠したまま、放ったまま、無視したまま表面的に生きつづけようとしているのです。それが不幸、病、事故、失敗、挫折の元凶なのです。
人間はだからこそ、外なる神にすがり、神に懇願し、神に祈るのでしょう。そうすることによって、自分の苦しみを、自分の至らなさを、自分の腑甲斐無さを、自分の弱さを転化しつづけて一抹のやすらぎ、平安を得ようと努力しているのです。だがそれによって本当に自分の心の救われが生ずるのであれば、それに越したことはありません。しかし世界各国各人が神にすがり祈りつづけていても、誰一人として真に救われてはいないのです。誰一人として永遠の幸せを勝ち取った者はいないのです。何故なら、彼らの祈りは本ものではなく、ごまかしの祈りであるからです。そのことは自らの本心が一番知っているはずです。だが本人は真理を見失ってしまっているため、それが判らないのです。そして本人が真の勇気がなくてそこに触れたくないため、神にすがることを求め始めるのです。
多くの人々の心は今満たされてはいません。あなた方の心は平安を求めてさまよっています。かつまた、あなた方の心は飢え渇いています。潤いを求めて何かを探し求めているのです。だがしかし依然として渇きを癒してくれるはずの水を見つけられず、次第にあなたの心は自分の渇きそのものをごまかし、自分の心の奥に閉じ込めてしまったのです。水を探し求めながら水を得られないと知ったあなたは、その代わり、水に代わる何かを求め始めるのです。そして自分の心を偽り自分自身の心をごまかし始めるのです。自分の心を無理やりに納得させるのです。だがしかし喉の渇きを癒してくれるものは水しかありません。水に代わるいかなる代用品を与えられても満たされるものではありません。しかしあなたは水以外のもので満足するよう自分に強いたのです。働きかけ、我慢させたのです。だがそれによって少しの潤いは見出せたとしても、喉の渇きは止まってはいません。依然として渇き切ったままです。
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自分の心のメッセージを正しく読み取る
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人間はこのようにして先ず自分自身をごまかしつづけて生きてきているのです。本当の自分が求めているもの、本当の自分がしたいこと、本当の自分が喜んで生きたいこと、その内なる叫びを押し止めてしまっているのです。その原因は自分にあります。自分の真の心の叫びを無視しつづけてきたことにあります。
たとえば、自分が喜びをもって生きたいと思う。そのためには、その喜びを成就するよう自らを導いてゆけば、実に事は簡単に済むことなのです。しかし、そこで自分の心を押し殺してしまうのです。両親はどう思うか? 世間は何と言うか! そんなことをしたら人は笑うだろう。それに、それをやる勇気がない。果たしてその能力が自分にあるだろうか? 自分の喜ぶ道を最後まで貫いてゆける自信がない。友人知人はどう思うだろうか。自分は挫折するのではないか。皆がゆくべき道から外れていってしまうのではないか‥‥等々、自分の喜ぶべき道を貫くためには、周りを気にする想いが大きな障害となって自分の前に立ちはだかってきます。そのため不安感が自分の心をよぎるのです。大丈夫かな? 止めておいたほうがいいかも知れない。無難な道が合っているように思う‥‥こうして自分の心から欲する道を断念し、誰もが歩む道を志し、自分の意に反して無難な道を選んでしまうのです。そのためにいつも心の中では葛藤が続き、不平不満、不安、焦りが消えず、充実感がなく、自分のエネルギーを完全燃焼させる働き場がなく、悶々とわけもなく燻りつづけて生きてゆかねばならないのです。
その自分の心をちょっと垣間見てみると、自分の人生の決断を下したその瞬間の自分の腑甲斐無さ、自分の信念の足りなさ、自信に欠けた心が今の現実の人生を決定したことに対して、何らかの悔い、罪悪感を感じているのです。だがしかし今更この年になって方向転換は無理だし、それに今までの苦労、努力、忍耐、体験等の成果が無駄になってしまう。自分の心を自分の思う通りに導けなかった自分に対し、それを素直に認めたくはない。そのためまた自分をごまかし、騙し、忍耐を強いて、今まで歩んできた道を再び歩み出すのですが、どうしても心の奥の自分が納得しないのです。抵抗する。革命を起こしたくなる。だがしかし、その心を再び強く押し止め、納得させ、好きでもない道を、喜びを感じない道を、苦難の道を歩まざるを得ないよう自分に無理強いするのです。このようにして多くの人々が自分自身の本心を裏切って歩んできた人生に痛みを感じているのです。今更変えようもない自分の力不足、能力の無さに限界を感じ、燻りつづけながら、不安を感じながら、不承不承、倦怠感を感じながら、相も変わらず同じ道を生きつづけているのです。
自分の心に毎日喜びをもって、生きがいをもって生きてこそ幸せな安心立命の境地に達するものであるのに、人はみな多かれ少なかれ、このようにして自分の本心をごまかしながら生きてしまっているのです。この痛みがこの悔いがこの不満がいつも自分の心の中で葛藤しているのです。要は水が欲しいのに水が与えられずに、水に代わるものを与えられ、無理に納得させられて生きているようなものです。それでは心から満足できるはずがありません。水に代わるものが与えられ、喉の渇きが一時やすまったとしても、それはごまかされ、騙されているだけなのです。真の喉の渇きは癒されず、潤わされず、必ずまた後で喉の渇きを訴えるのです。ごまかしは真実ではありません。偽りは真実ではありません。人間は人に騙され人に偽られる以前に、自分を真っ先にごまかしているのです。自分自身を偽って裏切っておきながら、自分の苦悩、この悲しみ、この嘆き、この不安感を癒すために神に救いを求めても、根本の解決には至らないのです。
今からでも決して遅くはありません。先ず自分をじっと深く省みて、自分が幸せであるか否か、そして自分が毎日喜びをもって生きているか否かをはっきりさせる必要があります。その根本問題に触れずして表面的トラブル、表面的苦悩を解決したとしても、いつかはまた必ず同じ悩み、同じ悲しみ、同じ問題にぶつかります。人間は自分の心に素直に従うことによって、自分の心の要求に応えることによって、自分に与えられているエネルギーを百パーセント完全燃焼することが出来るのです。何故ならば自分のやりたいこと、真から為し遂げたいことは喜びをもって、生きがいをもって、幸せを内に秘めながら全力集中し全生命をかけて達成したいという、本来人間誰しもが持っている完成させる能力、達成させる意識が知らず知らずのうちに発動されるからです。自分をごまかし自分を裏切り、自分を偽った心からは、完成させる能力、達成させるパワーが発動されず、不完全燃焼に終わってしまうのです。何故ならば本来のエネルギー、パワーが歪められて使用されるからです。
真の能力を発動させるためには、一にも二にも自分の心のメッセージを正しく読み取ることが必要です。それがたとえ誇大妄想的なことであれ、本当に真から喜びと幸せと生きがいをもってやりたいと念願するならば、それは必ずやり遂げられるものです。それこそ自分の内にある何でも完成させるパワー、能力、エネルギーが全開されて、その目的を達成させようとする働きが完全燃焼するからです。またそれとは逆に、小さな小さな、たとえ人が意に介さない取るに足らないどんな些細なことであっても、自分がそれを心から欲するならば、やり続けている内に必ずその小さな小さなことが何か大きなものとの縁を得て、大きなものの中で自分の望みが達成され、自分でも思ってもみなかったような素晴らしい成果となって自分の人生が展開してゆくのです。
人間はどうして自分に正直に生きられないのでしょうか。自分に対して正直に生きている人は真の幸せと平安と至福に満たされているというのに、不幸や苦悩や不安の多い人程、自分自身をごまかし偽り裏切っているのです。自分の本心の欲することを意に介さないで世間体のために、虚栄心のために、自信喪失のために自分自身を裏切ること程悲しいことはありません。自分をごまかし偽り、裏切った分だけ多くのつけが自分に回ってくることを知らないでいる、そんな愚かな生き方を人類は果てしなく繰り返しつづけているのです。 |
前生からの感情想念を一つ一つ丁寧に消してゆく
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自分が毎日生きているその生命そのものが喜びを感じていない、輝いてはいない、明るくない、生き生きしていないといった状能では、病気になるのは当然です。毎日生きがいをもって生き生きと輝いて生きている人は、決して病気にはなりません。何故ならば生命そのものが輝いているからです。病気になる人は、決まって自分の心が生き生きと輝いていません。喜びや楽しさが心の中から消え失せてしまい、毎日心が不安と焦りと苛立ちと不平不満でいっぱいなのです。それらの不安定な心がいつも心配や苦しみや不快感の素なのです。彼らの心が毎日の彼らの人生のスケジュールを決定してゆくのです。そのような心からどうして生き生きと輝いた幸せな日々が生まれ、人生が訪れるでしょうか。いいえ、決して訪れるものではありません。それらの心からは病気、事故、災害、苦しみがもたらされるのです。毎日の人生の設計図にそれらのことしか現われては来ません。何故ならば彼らの心がそのようなマイナスの状況を引きつけ、創り上げてゆくからです。今からでも決して遅くはありません。大事な尊い自分の一生です。どうぞ間違いのないよう、誤りのないよう自分を正しく導いてあげて下さい。
自分の心がいつも喜びによって嬉嬉として楽しく幸せであるよう導いていって下さい。誰の心もそれを望んでいるのです。自分の心に素直に従っていれば不幸や病気や事故に出会うことはないのです。そして今あたたがあなたに対して出来ることは、あなたの心を見つめることです。決して難しいことではありません。何も恐れることではありません。真実を見ればよいのです。今まで自分自身をごまかし、偽り、裏切ってきたその部分をはっきりと見つめ直せばよいのです。祈りながら、自分の心をじっと見つめて下さい。いっぱい嫌なこと、不快なこと、不満なこと、憤ること、心配なこと、恥ずかしいこと、苦しいこと、悲しいことが次から次へと現われては消えてゆくことでしょう。それはそれでよいのです。どんどんどんどん自分の心の奥にしまい込んでしまっていた古い記憶、触れたくない事実、何でもすべて吐き出すように、一つ一つここでまた新たに自分をごまかさないで、勇気をもって真剣に過去の出来事を消すのです。心の外に現わさなければ決して消えることはないのです。一旦心の外にその様々な秘められたる感情想念が現われることによって、初めて消えてゆくのです。消えてゆけば、もう二度と心の中に、心の奥にその嫌な不快な感情想念をしまい込む必要はなくなるのです。ここでこそ五井先生のみ教え、消えてゆく姿で世界平和の祈りの方法が役立つのです。
今まで自分で自分をごまかしてきた、そのごまかしてきた自分も前生の因縁の消えてゆく姿なのです。そしてまた、自分が世間の眼に耐えられなくて自分でも歩みたくない道を歩んできてしまったことも、これもまた前生の因縁の消えてゆく姿なのです。この世の中に現われるものは決して偶然ではなく出鱈目でもなく、すべては必然であり、因縁因果の世界なのです。自分が自分をごまかし、偽り、裏切ることも、これもまた自分の前生の因縁なのであります。
ですからそれらのすべて一切のことは消えてゆく姿であって、今生に現われ消えてゆけば必ずよくなるのであるという教えが、五井先生の消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。私達はこの教義を、真理をしっかりと心に修めて、それを実行に移してゆかねばなりません。頭でわかっていても観念で知っていても、そんなことは一切何の役にも立ちません。一つ一つ丁寧に実行に移してゆくことです。自分の心に現われてくるあらゆる感情想念を面倒がらず、また自分に嫌気を持たずに、また溜め息をつかずに、一つ一つ丁寧にすべては前生の因縁の消えてゆく姿であると、自分に心より納得させ、理解させ、そして消してゆくのです。個人人類同時成道の祈り、世界平和の祈りを祈りつづけながら、自分の心のあらゆる感情想念を消しつづけてゆくのです。これを毎日丁寧に一つずつやり続けてゆくうちに、いつの間にか自分の本心が表面に現われてきます。今までは種々様々な感情想念が自分の本心を覆い隠していた状態が消えてゆくにつれて、徐々に本心が表に現われ始めるのです。
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真の自分を識ることは、神を識ること
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その時、自分の人生が本当の人生に生まれ変わる時が来るのです。本心に素直に自分を導いてゆくのです。その本心のメッセージは同時に自分を常に見守り導いておられる守護霊、守護神のみ心なのです。その守護霊と守護神のみ心と自分の本心が一つになったそのメッセージを心して受け取るのです。本心のメッセージは自分自身でしか受け取れません。他を通して何も受け取ることは出来ません。他からは何も与えられません。平均的な常識的な答えは導き出されても、それはあくまでも平均値でしかないのです。自分自身のものではありません。自分の本心のメッセージを自分で聞き取ることこそ自分の人生です。喜びと幸せと輝かしい生きがいをもって歩むことが出来る自分自身の人生そのものです。
自分の本心のメッセージをどうして受け取ってよいかわからない人は、そこで祈るのです。神に祈るのです。世界平和の祈りを祈りつづけるのです。我即神也の真義を呼び覚ますのです。祈りの中から、宇宙神のひびきの中から、五井先生の慈愛の中から、自分自身の本心のメッセージが聞こえてきます。はっきりと確実にその本心の声は自分を幸せへと導き、喜びと輝かしい人生をもたらしてくれます。
何故ならば、それこそ今生に生まれてきた自分の天命、意志だからです。今までは自分の人生を歩んできたつもりでいても、真の自分自身の人生ではなかったのです。人に言われて、世間体を気にして、虚栄心のため、または家代々の家業を受け継がなければならなかったり、その他自分自身の能力不足や創造力に欠けたためなど様々な原因や理由がありますが、すべて自分の本心から発した人生ではなかったのです。これからは残された生命を出来る限り自分の本心に従って素直に忠実に生きてゆけば必ず病気にならず、苦しみを超えて輝かしい死を迎えることが出来ます。苦しみ、悩み、不安、恐怖はすべて自分の本心に背き、本心を裏切ったことから現われているものです。ですからその真理が判れば、もう二度と再び愚かな生き方を繰り返す必要はないのです。
常に忘れてならないことは、自分が幸せであるよういつも自分の心を徹底することです。毎朝起きた時、今日も自分を一日幸せに導いていくことを自分に誓うのです。誓ったその瞬間から、自分の心はその命令通りに、幸せに満たされるよう一生懸命働き出すのです。そして今日の一日が終わり、休む前に今日一日幸せであったらそれでよし、幸せでなかったら明日から新たにまた幸せに導こうと自分に言い聞かせ、納得させればよいのです。そんな毎日の繰り返しによっていつの間にか本心に則った輝かしい人生が開けてくるのです。
心の奥に閉ざされてしまった一番大事なこと、一番大切な部分に触れずして、自分の一生を送るという愚かな生き方を繰り返してはならないのであります。
そのためには自分の心を見つめつづけ、それによって真の自分を識ることなのです。そして真の自分を識ることは、かつまた、神を識るということなのであります。真の自分を識らずして神を識り得ることはありません。かつまた、神を識るということは、全人類を識ることと同じなのです。もし自分の中に真実の愛を識り得たならば、あなたはすべての愛を知り尽くしていることになるのです。全人類の愛について知っていることになるのです。それはあたかも一滴の海水に似ています。海水の一滴を知り得たならば、その小さな一滴の中には海水全体が凝縮されています。何も海そのものを知るために世界中至るところ、あらゆる海に出掛け、あらゆる方面からあらゆる知識、あらゆる科学、あらゆる実験を駆使して海そのものを研究し、知る必要は全くないのです。海水のそのたった一滴を分析してその一滴を知ったならば、海そのもの海全体を知り尽くしたことになるのです。海水の一滴を分析し、その一滴が塩辛いとわかれば、海水そのものも塩辛いことがただちにわかるのです。海水の一滴の成分がH2OとNaClから成り立っていれば、海全体がH2O、NaClで出来ていることを必然的に知ることになります。何故ならば海水の一滴に海全体が凝縮されているからです。真の自分を識ることは、神を識ることなのです。真の自分を識ることは"我即神也"の真理を識ることに至ります。この究極の真理を自分の心に写し出し、その姿を現わし始めたならば、そこには以前と全く違った自分、光り輝いた神そのものの自分を見るのです。人が自分を見て、「吾は神を見たる」と思わず思わせるほどの神そのものの自分がそこに存在しているのです。その境地に達するまで私達は日頃コツコツと消えてゆく姿で世界平和の祈りを、現実の生活に行ないとして現わしてゆくことが大切なのであります。
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西園寺昌美著『我即神也』より
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