世界平和の祈りQ&A

|
Q. 世界平和の祈りをしているうちに、次の言葉につまったり間違えたりしますが、順序通り唱えた方がよいでしょうか?
 |

世界平和の祈りは、文字に書いてある言葉通りに唱えなければいけないとか、順序を取り違えたらいけないとか、いうものではないのです。それは文字以前の言葉、言葉以前の想念にあるからなのであります。この言い方は少しむずかしいようですから、やさしく説明しましょう。
まず世界平和の祈りという文字を見、その祈りの言葉を見ますと、守護霊、守護神という言葉を、ただ神という言葉にかえて思った時、実にわかりやすい、子供にでも一目でわかる言葉が文字として並べてあるので、おぼえる、おぼえない、考える、考えないという程に、表面に現われている文句はむずかしいものではありません。 誰にでも、一目で意味のわかる、現代的な平易な言葉が文字として書かれてあるのです。ですから、実際に祈る時には、その意味は、もう各自の心にはっきりわかっていることなので、順序が逆になろうが、途中で言葉がつまろうが、そんなことは、その祈りの大意になんら関係はないのであります。 ですから、世界人類が平和で……と、その人の想いが、その文字の中に、言葉の中に、一歩飛びこめば、もうその人の想いは、世界平和の祈りの中、いいかえれば、世界人類の平和を達成せしめようと、働いておられる、救世の大光明(人類守護の神霊団体)の流れの戸口をあけたことになるのです。何故かといいますと、この祈りの言葉は、一言一言にそれぞれの力がある、ということも事実ですが、その全体の意味に大きな力があるのでありまして、最初の、世界……と、その人が、祈りの言葉を心に想い、あるいは言葉に出した時には、人類救世の大光明の流れにつながるスイッチをひねったことになるのであって、もうその後は、こちら側、つまり肉体人間の側からの念力ではなく、あちら側神界からの救世の働きが、肉体のほうに伝わってくるのであります。それはちょうど、電流のスイッチをひねれば、電流が何をしなくとも自然に流れてくるのと同じ理であるのです。 要は、こちらの想いを、救世の大光明のほうにむけかえればよいので、念力で神の力をこちらにひき下すというようなものではないのであります。順序がどうでも、途中で祈りの言葉を間違えても、その人の想いは、すでに全体の言葉の意味をつかんでいるにきまっているのですから、そうしたひっかかりは、いささかも、世界平和の祈りの邪魔にはならないのです。
|
二つの利点
 |

この世界平和の祈りには、二つの利点があるのでありまして、一つは、肉体人間の想いが、常に、この地上世界の業想念(利害損得、喜怒哀楽)に把われていて、ほとんど一日中、ああではない、こうではない、と業想念世界の渦の中をぐるぐる廻りしていて、小我の想いの絶える時がありませんので、こうした業想念の渦から、人間の想念を抜け出させ、昇華させる意味で、小我の想念を転化させて、世界人類が平和……という、広い大きな希望の想いの中に投入させてしまい、一時刻でも、小我の想いを忘れ去らせるためであります。そう致しておりますと、いつしか、小我小欲で悩み悶えている、自己の小ささが嫌になり、自ずから、大きく心が開いてくる、という利点なのであります。
もう、一つは、世界平和の祈り本来の、救世の大光明を、この地上界、肉体人類の上に導入せしむる利点であります。 人間は本来、法華経にもありますように、仏(神)なのであり、神道でいえば神々なのであります。本来仏であり、神であるものが地球界に天降ってきて、物質世界の波動を身にまとって、次第に自己の神性、仏性を忘れ去ってしまったものなのであり、そのために、現今のように、個人と個人、国家と国家が傷つけ合い、殺し合って、物質的自国、肉体的自己の利益のみを得ようとして争っているのであります。
そこで、人類守護の神々が、種々な聖者となって、しきりに道を説き、人間に本来性の仏性、神性を知らしめようとしてきたのでありますが、こうした末法の世になりますと、普通の説法ぐらいでは、とうてい人類の滅亡を防ぐことは出来なくなってしまったのです。
どうしても、個人が救われると同時に人類をも救う、という個人人類同時成道という方法でないと、とても間に合わなくなってきたのです。白光真宏会の誕生は、こうした神のみ心によって、生み出された団体なのであります。
その重要行事の一つが世界平和の祈りなのであります。塚本夫人の体験記にもあるように、世界平和の祈りをしている時には、確かに大光明が、その人の躰を通して、この地上界に燦然と輝いているのでありまして、この大光明は、その人自身を救い、守ると同時に、その人の周囲の業想念をも大きく浄めているのであります。これは誰人が祈ろうとも、そうなるのであって、特定の個人に限ることはないのです。
|
神の子人間の証
 |

何故そのようなことがあるのか、といいますと、人間は本来は仏子であり、神の子であるということが、真理であるという証なのであります。本来仏性であればこそ、地上界、肉体界の業想念を、そのまま世界平和の祈りという、神界との約束言である祈りの世界に、投入してしまうことによって、神仏の世界の大光明が肉体という器を通して、この地上界に浄めの大威力を発揮するのであります。
この理は、日蓮と仏界の約束言の題目、法然、親鸞の約束言である念仏唱名と同意義であって、しかも、まだなんら汚れのない祈り言であり、一般大衆に最も意味のわかりやすい祈り言葉であるので、想念が、直ちにその祈りの中に飛びこんでゆき得るのであります。
どうぞこのことをよく理解して、文字や言葉や形に把われず、世界平和の祈りの根本義を自己のものとして、日常坐臥、祈りつづけて頂くことを念願するものであります。
救われたい想いが、直ちに救いの光明となって、世界を照らす、この世界平和の祈りであることが、やがて、広く人々に認識されることを私は確信しているのです。
|
|