世界平和の祈りQ&A

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Q. 信仰の浅い深いによって、世界平和の祈りの効果が相違すると思いますが、私のように信ずる心の薄いものは、救世の大光明にしっかりつながることは不可能ではないでしょうか。
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あなたのような疑問をもつ方がたくさんいるのです。昔法然上人が念仏門を唱導された時も、信徒の人々から、"お上人様と私共とでは念仏の効用が大変な違いでしょうね"との問が出たものでした。それは違うさ、と法然上人がおっしゃると思っていると、意外にも、"わしの念仏もみなさんの念仏も、念仏の効用に変りない"といわれたものでした。
私もそうした法然上人と同じ答をしたいのです。何故かと申しますと、私の唱導している世界平和の祈りも、浄土門と同じように、他力門なのであります。一般の人間が、自分だと思っている肉体身というものには、なんらの力も無いものだ、肉体身が悟るということも、肉体頭脳が真理を知る、ということもないのである。人間というものは、実は霊で神仏そのものであるのを、肉体身である物質身であると誤解し、顛倒妄想(てんどうもうそう)したところから、人間の不幸や不自由が起っているのである。であるから、自己が肉体である、不幸な者である、不自由なものである、という誤った想い、み仏(神)から離れた想いを、阿弥陀様の中に投入する。私の言い方でいえば、救世の大光明の中に投入する。そして改めて、阿弥陀仏や救世主の方から救いの手をさしのべてもらう、ということが、念仏門や世界平和の祈りのやり方なのであります。
しかし、もう一歩踏みこんでゆくと、人間というものは、今更救われるも救われないもない、はじめから救われているものであり、自由なものなのであるということになるのであります。それは、人間は本来、神の子であり、仏子である、神の子や仏子が不完全なわけがない、という原理によるのです。ですから法然上人のように、そうした真理を知っていた人にとっては、自分という肉体人間も、ただ単なる一信徒も、等しく時間的に消え去ってゆく業想念の現われであって、肉体人間としての両者の間には、なんらの差異もないと思われたのであったでしょう。
だから、私は駄目だとか、信仰が浅いからなどという想念も、すべて消えてゆく姿であって、念仏にも世界平和の祈りの効用にも、なんらの関係はないのであります。従って、自分が今まで、さんざん修業したということも、念仏や世界平和の祈りの効用のたしになるわけでもないということになります。
ですから、どのような人であろうとも、世界平和の祈りを唱えようと思った時から、その人が口で唱えようと唱えまいと、その人の本心とその人の想念とが、世界平和を祈る使徒ということになるのであります。
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宗教の奥伝
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これは宗教の奥伝ともいう教えなので、この説明だけではちょっとわかりにくいと思いますので、更にやさしく説明してみましょう。 みなさんは各自に自己の命(いのち)というものをもっておられます。この生命は普通の考えでは、肉体の中にだけあるものとして、肉体が滅びれば同時に消滅してしまうと思っているのです。この考えでは、とても阿弥陀様にも救世主にも救って貰えないのでありまして、人間というものは生命そのものであって、生命が肉体を造り、生命が智慧や想念の源泉になっているのであって、その生命は永遠に各個性をもって働きつづけてゆくものである、ということを知らなければなりません。 その真理を知ることが宗教の道なのです。ですから、肉体としての人間の能力(ちから)では自分自身をも世界をもどうにも救うことが出来ない。肉体人間としての能力以外になんらかの力がこの人間にはあるのではなかろうか。それは精神というものであろうか。否々、ただ単に精神というようなものではない。何か、常識を超越した大きな力が、この人間に働いているのではなかろうか。その力は、はたして人間のうちにあるのか、外にあるのか、うちにもあるようだし、外にもあるようだ。それではどうしたら、この超越した能力を自分自身のものとして、内からか、外からかひき出し、あるいはひき入れることが出来るのであろうか。とに角なんとかして、自分も他人も救われなければいかん、と思う人が出来てきたのであります。
そこから、様々な宗教の修業道が開かれたのであり、真剣に修業した人々は、真理を知って救われの道に入り、人を救う菩薩の道に入っていったのであります。
しかしながら、同じような修業をしながらも、素質の違いによって、悟れる人も悟れぬ人も出来てきて、現今では、悟る、つまり人間の真実の救われの道に入っている人が数少いように思われる世界になってきてしまいました。
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修業方法の欠陥?
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それはどこかそれらの修業方法に欠陥があったか、時代が一般大衆の悟りの時期に至っていなかったか、どちらかであったのでしょう。
修業方法の欠陥としては、あまりにも日常生活と離れ過ぎていたことと、むずかし過ぎるということであります。浄土門の方法は易行道といわれるように、念仏一念でよいのですからやさしいのですが、法然、親鸞級の聖者が存在した場合はよいのですが、指導者が覚者でない場合は、現在の私のように、人間は本来神仏そのものである、ということと、すべての業想念は消えてゆく姿、ということ、それに加えて世界平和の祈りというように、この世におけるすべての想念を、種々な角度から、その人の心から放させ、祈りとすりかえてしまうように指導していなかったため、教えがやさしいだけにかえって怠惰な、安易な救われの習慣がついて、労せずしてよい汁を吸う式になってしまったもののようです。
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地球滅亡のきざしある時代
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また、時期としては、現在の時期が、確かに人類全部が救われに入るに一番適しているようです。何故ならば、科学兵器によって、世界全土が滅び去ってしまいはせぬか、という極端な不安が起っている時期だからであります。どのような人が考えようと、今度戦争が起れば、地球人類は滅びてしまうであろう、と思えるのであり、その戦争の可能性は充分にあるように思えるのであって、何か超越的な力にすがろうとする想いが、その超越的な力がどのような形であろうと、すがりつきたい想いが世界の各国に湧き上がっているのであります。それが新興宗教を輩出させたのであり、心霊科学や、宇宙物語に異常な関心をもたせはじめているのであります。
肉体の人間には、天変地異を防ぐことはおろか、人間同志の戦争をさえ防ぐことが出来難いものである、ということを、今日程身に沁みて感じられる時期はありません。
世界は一人一人の力が綜合されて動いているものでありながら、表面の想いでは一人一人が嫌っている争いのほうに、滅亡のほうに、進んでゆこうとしているのであります。原水爆実験競争などは、その一つの例です。それは人間のうちに潜んでいる自我欲望業想念の自然的転回であって、そのまま表面に現われれば、地球人類は滅び去ってしまうのです。その業想念とは過去世から今日に至る日常の自己主義の想い、愛にもとった想念の積み重なりであるのです。
そこで人間は、自分自身の力では、どうにも業想念の転回を防ぐことは出来ないと諦めてしまうことが肝腎なのであります。一度諦めてしまえば、そこから他力信仰の世界が展けてくるのであり、その諦めが出来た時には、虚無的になるか、信仰的になるかの二つの道よりなくなってくるのです。もっとも真実の諦めとは明らめるということであって、真理を明らかにする、ということでありますから、宗教の世界にゆくより他にないことになるのです。 あなたが世界平和の祈りをしよう、と思い立ったことで、もうすでにあなたは救われているのであり、救世の光明につながっているのであります。それはあなたがすでに肉体人間として自己の力に諦めを抱いた証としての祈りの世界への突入だからであります。もうあなたの信仰が浅いとか薄いとかは問題外になっているのです。祈りの世界とはそういうところなのであります。祈ろうとあなたが想った時には、すでにあなたの本体(直霊)神の世界からの光明があなたに流れ入ってきているので、あなたはその時から業想念の世界の人ではないのです。ですからあなたは、そうした否定の想い(業想念)が出たら、ああこれは私の過去からの習慣の想い業想念が消え去ってゆくために、自分の脳裡に浮び出たのだ、と思って、その想いを世界平和の祈りの方にかえてゆけばよいのです。
神はすべてのすべてであり、大愛であって、あなたは神の愛し子であることを、改めて思って下さい。
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